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| 2006 年 降臨節 講話 | ||||
| 姫 路YMCA総主事 上松 裕明氏 | ||||
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臨床心理学とユング派心理療法の河合 隼雄さんは「世のなかには偶然というものが存在する。わたしたちはその周辺に生きている」といわれています。そのよ
うにいわれるとおりにちがいありません。ぼくは、なぜかたまたまに、ぼくの父と母の子どもとして誕生し、育てられ、なぜかたまたま導かれるままに、いまこ
うしてここにいます。なぜかたまたまに、家の近くにあった日本聖公会和歌山聖救主教会のナザレ幼稚園に通ったことが、日曜学校をたのしむようになり、毎
夏、琵琶湖畔・北小松の復活学舎で行なわれていた京都教区の信徒子弟キャンプに参加することが黄金の夏休みをぼくに約束し、そしてYMCAに入職すること
になったのです。「世のなかには偶然というものが存在する。わたしたちはその周辺に生きている」というわけです。 しかし、その偶然の周辺である「なぜかたまたまに」というのは、ぼくにとっては、そしてわたしたちにとっては、神さまの深い計画のなかでつながっている確 かな出来事なのだということですよね。 わたしたち一人ひとりは、神さまによって招かれ、祝福され、遣わされています。そのことを喜 びとする力が、わたしたちを励まし、生きているかぎりくりかえす迷い、躓き、戸惑い、立ち往生する人生をあかるくするのではないでしょうか。 とはいいましても、人生そして信仰という言葉をつかうことにためらいを覚えるほどに、ぼくは途上にあります。しかし、「なぜかたまたまに」ではなくて、ペ テロが網をおろした(ルカ5:1〜11)ように、「お言葉ですから・・・」(6)と、いまこうしてここにいることは、人生そして信仰という言葉でしかいい あらわせないものが、自分のうちにあるのだということに気づかされるのです。そして、いわば感覚の力こぶのように確かな実感のかたまりとして感じられる、 そんなぼくの記憶の断片を、きょうはお話しさせていただきたいのです。 ところで、記憶というのは過去のもので はありませんね。過ぎ去っ たもののことではなくて、むしろ過ぎ去らなかったもののことですね。とどまるものが記憶であり、自分のうちに確かにとどまって土壌となり、その土のなかに 蒔かれた種が季節のなかで育ったものが記憶であって、その記憶の庭に育ってゆくのが人生といえるのかしら、と思うのです。 そう思います と、ぼくにとっては精神の形成期にあって和歌山聖救主教会と京都教区信徒子弟キャンプによって、いわば価値観の中核をなす魂なるものが育てられた、とふり かえっています。小学校2年生になろうというときに、母がぼくに選択をもとめたのは、学校外活動でありました。英会話教室か、ソロバン教室か、ボーイスカ ウトか、ピアノ教室か、それとも日曜学校かというものでした。英会話もソロバンもピアノも興味を引くものではありませんでした。ボーイスカウトは最期まで 悩みましたが、それでも日曜学校とはなんなのかという興味と関心が、日曜学校を積極的に選択したのでした。そのことを母に告げると、じゃあこのつぎの日曜 日から行きなさい。あなたが卒園したナザレ幼稚園でありますとのことでした。 そうして、なかでも和歌山聖救主教会の担任牧師や執事 であった司祭と、京都教区の幾人かの司祭との交わりをとおして、その方たちの人格的(=人間的、信仰的)印象によって、ぼくは照射され、充電され、魂なる ものが育てられた、とかえりみています。 なにかに背をおされるようなせわしなさが始終こころにあって、ゆとりがなく、たちどまることが不安だったともいえる急ぎ足の人生の季節ー若さとはそういっ たものかもしれませんが、そんな未熟な試行錯誤の時間(=青年期)のなかで、ねじれて、無礼で、生意気であったぼくの輪郭を、かたちづくり、彩色し、かた ちをふちどってくださったことは確かなことなのです。 ぼくにとっては精神の形成期にあって、和歌山聖救主教会 と京都教区信徒子弟キャン プが、いわばぼくの価値観の中核をなす魂なるものが育てられた、といいました。それでは、なにが育てられ、ぼくはいったいなにを学んだのだろうということ ですが、それは、それこそ「人生の態度のとり方」といったものではなかったか、と思うのです。 和歌山聖救主教会の担任牧師であった Y司 祭が口ぐせのようにぼくにくりかえしたのは「イエスさまの愛と力を経験しましたか」、「復活のイエスさまに出会いましたか」というものでした。そんななか で、ぼくは、神さまを愛し、イエスさまを愛することが育まれ、わたしはいまイエスさまによって生かされているのだということを学んだ、といえます。 また「やさしい人におなりなさい」といわれました。自分のいのちと、それにつながるすべてのいのちをいつくしみなさい。いのちのやさしさを阻むものに対し ては容赦のない怒りと、弱いとされるいのちに対しては限りない愛をいだきつづけなさい。さまざまな人間の苦悩を無視してはなりません。あらゆるかたちの差 別や憎しみに反対し、あらゆるかたちの暴力や抑圧に対して批判的でありなさい、と教えられました。 そうして、 ぼくはYMCAに入職する のですが、教会のなかで育ったからこそ、キリスト教団体であるYMCAについては、かえってなにも知りませんでした。卒業後の進路に逡巡していたぼくに、 弟から電話があり、YMCAがスタッフを募集しているから応募してはどうかということでした。当時、弟は大阪YMCAの予備校生であり、その日のチャペル アワーで、ベトナム戦争のただなかに派遣された宮 崎 幸雄主事の話をきいて、YMCAの仕事は兄にむいているのではないか、と思って のことだとい いました。予備校には勤めたくはないというぼくに、弟は、あなたはベトナム反戦といっているではないか、あなたはキャンプが好きではないかといい、 YMCAは公正で平和な社会の実現をめざすキリスト教団体であり、キャンプを日本に紹介し、キャンプをとても大事な教育プログラムとしているのだといいま した。出願期限がもうすぐであるので急ぎ手続きが必要であるともいいました。翌日、東京の日本YMCA同盟の窓口であった日本YMCA研究所に電話をし て、必要な手続きについてたずねたのです。すると電話の相手は、必要な提出書類を告げるとともに、ぼくに対して「うえまつくん」と親しげに話しかけてくる のです。はじめて電話をした相手になれなれしく「うえまつくん」とは失敬な、と思った矢先、相手が京都教区信徒子弟キャンプでごいっしょであった方であ り、彼女もまたぼくにYMCAスタッフとして献身しなさいと勧めるのでありました。 そ こで、ぼくは応募することにしたのですが、当時の YMCA主事共同採用試験の出願時には、入職の動機と理由についての作文の提出と、所属教会の教職者と所属する大学のゼミの教授による推薦状が必要でし た。その手配はむずかしいものではありませんでしたが、京都復活教会のK司祭にもう一通の推薦状を書いてもらいなさいということになったのです。K司祭 は、京都YMCAのボイラー焚きをしながら、YMCA奨学生として同志社神学校に学んだ経験をもたれていましたので、この推薦状は有効だとの判断で あったようです。 そこで京都復活教会にK先生を訪ねて、推薦状をもとめたところ、推薦にあたって、YMCAの主事職に必要とされる 資質と能力 を確かめたいといわれ、出願締切りの期日までの一週間の生活をともに過ごすことが課されたのです。早朝のふたりだけの礼拝にはじまり、朝、昼、夕の食卓を 囲み、晩祷式や主日礼拝のサーバーを務め、牧会訪問にお伴し、病院で療養中の教会員を見舞うなどの一週間となったのです。はじめは務まるだろうかと不安に なり、祈りましょうにおののき、これだけ課されることを試されているなどと疑い、もう明日はいくまいなどと迷いながらの一週間でした。そこで、ようやく推 薦状を書いてくださることとなり、それも和紙の巻紙をひろげ、墨をすって、書いては改めるということで、ようやく書いてくださった推薦状を同封して、投函 したのは消印有効ぎりぎりの時間でした。 そのK司祭は、ぼくにこのようにいわれました。「朝おきたとき、まず きょうも神さまに生かさ れて在ることにしずまりつつ、神さまはなにを心配されているのだろうかと考えなさい。そして、その神さまの心配事を神さまとともにこころにかけなさい。 YMCAの主事を心ざすならば、そのことを日課としなさい」と。 そのように日課とし、こころとからだのふかいところでの信仰の喜び をしっかりと確信するには、まだまだ途上にあることを反省しながらも、YMCAのスタッフとして31年になりました。 YMCAの仕事において、ぼくを支えているつよい気もちは、「つぎの世代」と、まだ生まれてもいない新しいいのちである「のちの世代」に思いをはせて、子 ども と若者たちのなかに「平和を満たす」、「喜びを満たす」、「いのちを満たす」ために、「より優れた力」(=理性と倫理観と感受 性)をたくわえる、というものです。 そ の31年の一日いちにちにおいて、スタッフの仲間、ユースボランティアや講師、委員や役員のポリシーボランティア、プログラムに参加する子どもたちとその 保護者の方々とわかち合った晴朗な空気は、なにを思いかえしても気が笑いさざめきます。YMCAでの一日いちにちに培われ鍛えられたセンスと友情を頼り に、うっかり人生がすぎてしまうことを自らに許さず、「イエスさまの愛と力を経験し」、「復活のイエスさまに出会い」、神さまの心配事を神さまとともにこ ころにかけることを日課にしたいと思っているのです。 さて、もうすぐにクリスマスです。わたしたちの精神は、 はじまりのクリスマスにう まれた赤ちゃんへの記憶をもとにしています。イエスの誕生を囲むマリアとヨセフのやわらかな気もちと、あかるい表情を思いうかべます。わたしたちは新しい いのちの誕生を喜びます。お母さんは、自分の子どもがうまれて、はじめてみた顔を忘れることはありません。お父さんは、自分の子どもがはじめてみせた笑い 顔を忘れることはありません。幼い、ちいさな新しい〈いのち〉は、神さまからの贈りものです。そのかけがえのない〈いのち〉を大事に大切に守り、育んでゆ く恵みは、神さまからのあずかりものです。幼い子どもは、人の気もちを限りなくやわらかくします。ちいさくて、やわらかくて、静かで、あたたかいのが〈い のち〉であり、幸いです。 そのちいさくて、やわらかくて、静かで、あたたかい〈いのち〉と、幸いの大切さをかえりみるのがクリスマ ス。 わたしたち一人ひとりの人生と、あらゆるものに〈いのち〉を分かたれ、それを支えて、生かせよ〈いのち〉と働きかけてくれてい る神さまに"ありがとう"って手を合わせましょう。 誕生したちいさな〈いのち〉が育まれるには、この世界は愛と平和と喜びに満ちているとはいえません。いのちを授かったお母さんが、これまでにどれだけの悲 しみの涙をながし、いまも泣いているでしょうか。平和を奪われ、平和が失われている人びとの痛みと困難とを覚えて、ちいさくて、やわらかくて、静かで、あ たたかい〈いのち〉と幸いをもとめてまいりましょう。 ローマの信徒への手紙第15章に記されているパウロの三 つの祈りで、結びたいと思います。 「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに 同じ思いを抱かせ、こころを合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(5〜6) 「希 望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(13) 「平 和の源である神が、あなたがた一同とともにおられるように、アーメン。(33) | ||
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