姫路顕栄教会
2008 年2月の聖句PDFファイル
「疲れた者は、休ませてあげようマタイ:11章28節



  私事ながら、中学校の国語の授業で「働く、という言葉は【はた楽く】つまり、周りの人を楽にすることです。みなさんもよく働いて周りの人を楽にしてあげま しょう」と教わったことを今でも憶えています。しかし、この年になり貧しいながらも、人生経験を重ねて来ますと、働き過ぎは、結果として【はた迷惑】にも なるということも、骨身に染みて分かるようになり、やはり、教育とは「働く」ことと同じように「休む」ことの大切さも教えなければいけないと思っていま す。と、い
うわけで、今月の聖句は「休む」ことが大好きな(笑)僕のお薦めの聖句です。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。この聖句によりますと、イエスさまと共にいるということは、イエスさまと共に「働く」ことではなく、イエスさまと共に「休む」ことである、ということです。

  聖書の原典を調べますと、この「休ませる」と訳されている言葉の本来の意味は「元気づける」とか「立ち上がらせる」ということだそうです。たしかに、身体 の疲れは「休養」で癒されるでしょうが、私たちの本当の疲れである「魂の疲れ」はそうはいきません。聖アウグスチヌス(354−430)が「告白」の中で 「私の魂は、神さまのもとで安らぐまで決して憩うことはありません」という言葉を記しているように、「魂の疲れ」は自分の力で癒せるものではありません。

  「安息日を聖とせよ」という旧約聖書の掟は、「人間の世界(=成績、収入、効率、努力、評価)から離れて、神さまの世界に入りなさい」という招きなので す。たしかに、誰もが働かなければ生きてゆけないのが人間の現実世界なのです。しかし、それだけが生きてゆく全てではありません。人間の評価に振り回され ているこの世にあって、神さまが共にいて下さらなければ、真実の喜びに満たされた幸せな人生を生きてゆくことはできない、そんなキリスト教教育こそが、 「疲れた現代人」に求められているのですね。

 追:ここまで書いてきて、実は、僕自身が、全然、疲れていないことに今、気がつきました。それは「祈り」の毎に、いつも「疲れた者は、休ませてあげよう」と招いて下さるイエスさまの、やさしさの、お陰であるということにも・・・。

                                                                                   キリストの平和
                                                       (チャプレン 日本聖公会 司祭 藤井尚人)
Copyright(C)2007 藤井 尚人 


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